明石海峡大橋

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明石海峡大橋の架橋運動

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明石海峡大橋

明石海峡大橋を含む、本州と四国との間に橋を架ける構想の始まりは古く、明治22年、当時の香川県議会議員であった大久保言甚之丞が提案したことからと言われています。

 

 

 

そして明石海峡大橋の「明石海峡架橋構想」が出来上がったのも第二次世界大戦前にさかのぼります。

 

 

当時、日本は軍事国家。

 

 

 

明石海峡の大型軍艦の航行を妨げる明石海峡大橋の構想は具体化しませんでした。

 

 

 

1945年、戦後まだ古い船に定員オーバーの乗客を乗せることが当たり前のようにされているさなか「第十東予丸沈没事故」「せきれい丸沈没事故」と瀬戸内海で相次いで転覆事故が起きました。多くの方が犠牲になられ、明石海峡大橋の架橋運動が始まります。

 

 

 

1947年6月9日の就航した「宇高連絡船紫雲丸」は、わずか9年間に5度にわたって事故を起こします。

 

 

 

その中でも、1955年の沈没事故では犠牲者は168名に上り、修学旅行中であった児童が100名以上なくなるという痛ましいものでした。

 

 

 

この沈没事故により、本州と四国を橋で結び、いつでも安心して、安全に行き来できるようにしたいという人々の思いが一気に高まり明石海峡大橋の架橋運動が本格化しました。


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